浜松ゆかりの偉人 本田宗一郎の軌跡を辿ってみよう
公開日:2021/07/08
今回の科学館コラボのテーマは「歴史」。
「科学館なのに歴史?」と疑問に思う方もいるのではないか。
しかし、思い返してみると浜松科学館の展示には「産業史」が上手に織り込んであることに気が付く。
日本の産業の礎を築いた偉人たち
浜松科学館の2階をぐるりと繋ぐやらまいかストリート。
そこに立つのが、偉人パネル。
浜松にゆかりのある名だたる産業界の偉人たちが勢揃い。
各企業が協力した展示ではその企業ならではの技術が紹介されており、子どものみならず大人にも大人気。
日本の科学館で、地元の産業紹介も含めた展示は全国的にみても珍しく、浜松科学館の特色の1つなのだそうだ。
展示で紹介されている企業は浜松市民ならば愛着のある企業ばかりだと思うが、その創業者となると実は詳しく知らなかったりする。
「それはもったいない!」と子どもたちにもわかりやすく偉人たちの功績を伝えるべく、偉人紙芝居を作ったスタッフさんがいる。
山ちゃんこと山下さん
─── どういったきっかけで紙芝居を作ったんですか。
山下さん |
そもそものきっかけはコロナ禍で科学館が臨時休館になったことです。休館でも何か発信できることはないかと考えようということになり、紙芝居を動画配信することになりました。 紙芝居では「浜松偉人伝」と称して、浜松ゆかりの偉人を紹介しています。(【おうちDEみらいーら第62弾】浜松偉人伝 本田宗一郎の巻:https://youtu.be/DLEb7UZDDVg) “偉人”というと自分とは遠い人のように感じるけど、その人がどんな人で、どんな人生を送ったのかを知ることでグッと身近に感じてもらえると思うんです。 |
はままつオートバイ物語
実は山下さんは定年退職された元小学校の先生で、専攻は社会科。
ベテランの先生だった経験を活かして日々の業務に取り組んでいる。
今回は、山下さんおすすめの偉人、「本田宗一郎」の軌跡を一緒に巡ってみた。
山下さん | 本田宗一郎を今回選んだポイントになったのは、その知名度の高さですね。みんな知っているのでとっつきやすいかなと。子ども時代のエピソードも面白く、親しみを感じると思いますよ。 |
本田宗一郎の軌跡を辿ってみようin浜松
- ゆかりの地概要
- 本田宗一郎生家跡 → 旧山東尋常小学校跡 → 光明小学校 → 本田宗一郎ゆかりの鐘 → マスダヤ菓子店 → アート商会浜松支店(初代)跡 → 本田技研発祥の地 → 六間道路坂 → 本田宗一郎ものづくり伝承館
面白エピソード続出の少年時代
本田宗一郎は磐田郡光明村(現 浜松市天竜区山東)に明治39年(1906年)に生まれた。
大正11年(1922年)、東京の自動車修理工場へ修行に行くまでの16年間を光明村で過ごした。
およそ100年余り昔の出来事なので、当時のものはほぼ残っていない。
だが、子どもの頃のわんぱくぶりは数々の逸話になっておりその頃から存在感は抜群だ。
私たちは天竜に残る「宗ちゃん」の痕跡を訪ねた。
本田宗一郎生家跡
山下さん | では、最初に、天竜区山東にある本田宗次郎の生家があったところを訪ねてみましょうか。 |
─── 本田宗一郎が生まれた家がまだ残っているんですか?
山下さん | さすがに、100年以上前のことなので家は残っていませんが、本田宗一郎のお父さんが植えたという柏の木が残っているんですよ。 |
長野県と浜松市を繋ぐ道路、国道152号から住宅地へ続く細い道を南東へ歩く。
─── あ!柏の木発見!もしかしてここですか?
立派な柏の木を発見
山下さん |
ここです。私も実は初めて来ました。これは立派な柏ですね。 今は、別の方が所有している建物ですが、柏の木向かって左側に家があったそうですよ。 |
─── 奥に看板が立ってますね。どれどれ。お父さんと夜店に行って柏の木を買ってきたんですね。樹齢100年以上ですって!すごいなあ。
樹齢100年以上
山下さん |
本田宗一郎のお父さん 儀平さんは、もともと鍛治職人だったんですよ。 儀平さんが鍛冶屋を始めた当初は船明にある実家の納屋を仕事場にしていたそうです。 そこで、村人たちの鍬や鋤などの農具を直していたのですが、このままでは一介の農機具屋で終わってしまう、もっと商売を大きくしたいと、まさに今立っているこの場所に新しいお店を開いたそうです。 |
─── なぜ、ここ天竜区山東だったんですか。
山下さん |
昔は、山の木材を筏にして天竜川に流すことで上流から下流に運んでいました。 ここは地形的に天竜川に阿多古川、二俣川が加わって繋がる場所なんですよね。 また、長野へと南北に続く国道362号線、愛知県豊川から静岡市を繋ぐ国道362号が交わって重複する道がある交通の要所。 だから、昔は人も仕事も集まる栄えた場所だったんですよ |
本田宗一郎の実家は、高岡城跡(昔は、船明地区の山に高岡城というお城があったそうだが詳細不明。)の脇にあったと言われている。
─── なるほど!儀平さんは野心のある方だったんですね。鍛冶屋としての事業拡大のために街に出てきたというわけか。お父さんも優れた職人さんだったんだなあ。
山下さん |
普通の道具だけでなく、独学で鉄砲の修理をしてしまうくらい好奇心旺盛の器用な職人さんで評判も上々だったのだとか。 ですが、腰を痛めてしまい鍛冶屋ができなくなってしまったそうで、そこで何かないかと副業で始めたのが自転車屋だったそうです。 |
─── 鍛冶屋さんが自転車屋さんに?自転車が好きだったんですか?
山下さん |
現代人の感覚で言うと不思議でしょうけど、当時は自転車は高級品だったんですよ。 それに現代の自転車ほど丈夫じゃなかったのではないかなあ。 儀平さんは鍛治職人だから溶接やちょっとした部品を作るのもお手の物。 当時は自転車は珍しいものだけど、そのうち普及していくと睨んでいたんでしょうね。とても先見の明がある方だと思います。 |
─── 元鍛冶職人の自転車屋さんか。なんだか本田宗一郎の技術者としてのルーツが見えてきましたね。
山下さん |
当時の子どもたちは親の仕事の手伝いも日常的にしていました。ですので、幼い頃からお父さんの仕事場でも遊んでいたようですね。 すでに、3歳の時から仕事場で鋼片(金属の素材)を道具を使って折り曲げ、おもちゃを作って遊んでいたそうです。 |
─── 3歳!? 3歳の時、自分は何をしてたかなあ。…蟻の巣を指でほじくっていた気がする。
旧山東尋常小学校跡
山下さん |
次に訪れるのは、本田宗一郎が通っていた山東尋常小学校の跡地です。 ここには、校門だけ残っていて、今は幼稚園になっていますね。 |
─── 小学校は潰れちゃったんですか。
山下さん | いえ、山東尋常小学校の後身である浜松市立山東小学校と浜松市立船明小学校が統合して「浜松市立光明小学校(現 浜松市立光明小学校)」になったんですよ。後でそちらにも行きますからお楽しみに。 |
─── 立派な門ですね。「世界のホンダ本田宗一郎出身校跡」って書いてある。
山下さん | 「大正十四年五月建立」って書いてありますね。確か、宗一郎が東京にアート商会(自動車修理工場)に修行に行ったのが大正11年だから、その3年後に建てられたんですね。 |
─── 当時の宗一郎はこの門を見ていないのか〜。でも、ここに学校があったんだなって肌身に感じることができました。
山下さん |
それまでも精米所の発動機や製材所のノコギリを眺めるのが好きだったようですが、宗一郎がエンジンに魅せられていったのには、2つの出来事があります。 1つは車を見たこと。大正6年の時点で浜松市内には4台しかなかったそうなので、当時はかなり車は貴重で高価なものだったんですよ。 |
─── 4台しかなかったんですか!
山下さん |
はじめて車を見てエンジンの音を聞いて排気と油の匂いを嗅いだ時は憧れでうっとりとしてしまったほどだそうです。 「俺にとっちゃ、ガソリンの匂いは猫のマタタビのようだった」と(笑) |
─── 排気と油の匂いでうっとりか…。ちょっとわかんないなあ(笑)それだけ衝撃的だったんでしょうね。
山下さん |
もう1つは飛行機を見たこと。大正6年の5月に曲技飛行のアートスミスが三方原にあった練兵場で飛行機に乗ったんです。 宗一郎11歳の時のことで、どうしても見たかった宗一郎は親に内緒で学校を休んで行こう心に決めたんですね。 |
曲技飛行のアートスミス – 「浜松市民の80年 写真集」より
─── 11歳が三方原まで1人で行くのか。バスで行ったとか?運賃はどうしたんだろう。
山下さん |
残念ながら、市営バスが生まれたのは昭和に入ってからなんですよ。 なんと、自転車を三角漕ぎで行ったんです。 11歳には大人用の自転車は大きいのでサドルに跨がれないから、ほぼ立ち漕ぎみたいな形ですね。 前の日の晩、お父さんの自転車を物置に隠して、こっそりと握り飯を用意しておきます。それから、2銭のお金を用意して、翌朝こっそりと旅立つわけです。 |
─── 三方原までは15キロ以上あります。大人でもヘトヘトになる距離ですね。想像しただけで足がつりそう(笑)
山下さん |
やっとの思いで練兵場に到着しますが、入場料の相場は高価で2銭ではとても足りなくて入れなかった。 仕方なく練兵場の周りを歩いていくと入り口の反対側に3本の松の木があって、これ幸いと木に登って見たそうです。 枝を折って下から見えないようにしてね。 パイロットの顔まで見えたそうで特等席より良い眺めだったかもしれませんね。 |
自作の飛行メガネですっかり飛行士気分の宗一郎 – 光明小学校資料室より
─── すごい執念だなあ。ついに成し遂げたんだ。帰ったら親にはめっちゃ怒られそうだけど、それでも見た甲斐があったってもんですよね。
山下さん |
それがね、お父さんは怒らなかったそうです。 三方原まで1人で行ってきたという息子をみて、驚きつつもその熱意というか情熱を受け取ったんじゃないかなあ。 |
光明小学校
山下さん |
先ほども説明しましたが、山東尋常小学校の後身である浜松市立山東小学校と浜松市立船明小学校が統合してできたのが「天竜市立光明小学校(現 浜松市立光明小学校)」。 本田宗一郎の母校として、本田宗一郎の教えを大切に後世に教え紡いでいるんですよ。 |
光明小学校
山下さん |
と言うのも、浜松市立光明小学校では、宗一郎の言葉が校訓になっているんですよ。 また、校内には「郷土・本田資料室」というバイクや本田宗一郎をテーマにした展示があるんです。 |
今回、光明小学校 校長の太田先生と教頭の藤岡先生にお話を伺いました。
左手から太田先生、山下さん、藤岡先生
─── 本日はよろしくお願いします。光明小学校では、宗一郎の言葉が校訓になっていると伺ったのですが…。
太田先生 | そうなんです。本田さんの出身校が光明小学校の前身である山東小学校(山東尋常小学校)ということで、山東小学校100周年の年に本田さんがご来校くださったことがあったんです。 その時にいただいた、子どもたちに向けたお手紙の中に「試す人になろう」と言う言葉があったんです。それを校訓に掲げております。 |
試す人になろう
─── 「試す人になろう」。いかにも技術者らしい、本田宗一郎らしい言葉ですね。
太田先生 |
チャレンジ精神を応援するような、今の時代にもマッチしている言葉ですよね。 「学校教育目標」という、本校が示す教育方針があるのですが、学校教育目標にも掲げています。 |
─── 本田宗一郎のことを教える授業なんかもあるんですか。
藤岡先生 |
授業としては、3年生の総合的な学習で本田さんのことを調べる機会を設けています。 実は、ちょうど昨日、本田宗一郎ものづくり伝承館に訪ねて行って本田さんの功績を学んできたところです。 |
太田先生 | 3年生の道徳の授業もそうですが、学校の至る所に校訓が掲示してあるので子どもたちは日常生活の中で「試す人になろう」と言う言葉に触れるようになっています。 |
さりげなく、至る所に校訓がある
太田先生 |
子どもたちには「失敗してもいいよ、まずチャレンジしてみようよ。そこから学ぶことがあるから」と教えています。 先生方にも「チャレンジさせてください。失敗してもその努力や過程を褒めてください。」と、校訓が子どもたちに備わっていくように力を入れています。 |
─── とても積極的に取り入れていらっしゃるんですね。確か、私が小学生の時も、総合や社会の時間で地元の産業や歴史を調べる時間ってあったなあ。
山下さん |
浜松に限らずですが、「地域の教材化」という言葉があります。 子どもたちの日常生活や地域の中には、学ぶべきことがいっぱいあるんです。 その知識や学びを、子どもたちが身近に学べるようにいかに学校の先生が工夫していくか。 そういうご努力をお二人も含めてそれぞれの学校がやってくれているんですよ。 |
─── 学びは教科書の中だけじゃないんですね。
藤岡先生 |
自分の住んでいる地域に本田さんのような方がいたっていうのは子どもたちにとってとてもいい財産。 子どもたちはそれだけで身近に感じて、教えがスッと入ってくるんです。 |
太田先生 |
地域を歩くといいところがたくさんありますよね。 地域を見直すきっかけというか、「自分たちの故郷って結構いいじゃない」って思ってもらえるような価値づけを教師が担えたらなと思います。 そういった地域の勉強って私たち教師も楽しいんです。子どもたちと一緒に学んでいきたいですね。 |
郷土・本田資料室
藤岡先生 |
郷土・本田資料室は平成12年の2月に開設されまして、今年で21年目になります。 開設した年の7月には本田さんの奥様 さちさんがご来校され、資料室をご覧になっています。 |
─── 奥さんもいらっしゃったことがあるんですか!20年以上の間、資料を大事に保管しているんですね。
─── バイクがある!(触らないでという注意書きがないので)これは手で触れて良いんですか?
藤岡先生 | 手で触れても大丈夫です。子どもたちも興味深そうにそっと触っている子もいますよ。 |
─── 危ないからっていうので道にあるのは自由に触れないですからね。
藤岡先生 | 子どもたちも大事なものだってわかっているから慎重に丁寧に触れていますね。 |
藤岡先生 | こちらに展示されているものは地域の方々や関係者の方々に寄贈いただいたものです。 |
子どもたちによるイラスト
─── あ、このイラスト上手ですねえ。
藤岡先生 | これは、卒業の子が描いてくれたものです。 |
─── 卒業生の子が!校訓も書いてある。本田宗一郎、愛されてますねえ。
藤岡先生 | ええ、愛されてます! |
大正当時の校舎
藤岡先生 | これは、大正11年の山東尋常小学校の校舎の写真です。 |
─── 大正11年!ちょうど宗一郎が卒業した年ですね。2階建ての立派な校舎ですね。先生方がスーツじゃなくて袴なのが時代を感じますね。
藤岡先生 |
本田さんご本人の言葉も子どもたちに教えています。 何かに挑戦して夢中になって物事を進める時には、誰かが、何かが、その犠牲になっているかもしれないんだよ。それを忘れちゃいけないよ、と。 だからこそ、何かに挑戦するときには精一杯全力で取り組みましょうと伝えています。 |
子どもたちの力作の絵
山下さん | 宗一郎の生い立ちが掲示してありますね。あれは子どもたちが描いたんですか。 |
藤岡先生 | ええ。自分たちで生い立ちを調べて、絵も自分たちで描いています。 |
藤岡先生 | これは山東小学校100周年の式典に本田さんがご来校なさった折の写真です。 |
藤岡先生 |
その式典時にされたスピーチで「試す人になろう」ということを子どもたちに話されたんですね。 あちらにある直筆のお手紙が式典後にいただいたものです。 |
手紙
藤岡先生 | こちらにあるペン皿は、その記念にいただいたもので「アイデアと努力」と言う文字が刻まれています。 |
─── ここには子どもたちはいつでも入って良いんですか。
藤岡先生 |
常に解放しています。この前も放課後に6年生の子たちが資料室へ来て何かを調べていましたね。 子どもたちだけでなく、市民の皆様にも解放しています。事前にお電話いただければ誰でも閲覧可能ですよ。 |
あなた自身が夢や希望を語り「試す人」になる部屋
本田宗一郎寄贈の文字
実は、天竜川の岩石を積み上げた光明小学校の校門は本田宗一郎と山崎卯一(溶接棒製造の日本ウエルディングロッド株式会社の創業者で宗一郎とは旧知の仲)の寄贈。
門の裏に回ると「本田宗一郎」の名を確認できた。
本田宗一郎ゆかりの鐘
山下さん |
本田宗一郎という人は子ども時代のわんぱくエピソードに事欠かない人なんですよ。 これから訪れる「清瀧寺」には「本田宗一郎ゆかりの鐘」があるんですよ。 |
清瀧寺
本田宗一郎ゆかりの鐘
─── これが例の鐘ですね。
山下さん |
宗一郎が小学生の時に、書き方の授業が嫌いでサボって、おまけにお腹が空いてお昼まで待ちきれないっていうので、正午の鐘を30分くらい早く突いてまんまと早弁(はやべん)をしたっていうエピソードがあります。 当時は寺の鐘を鳴らすことで時報としていたんですよ。その後、お坊さんに見つかってたっぷりしぼられたそうですよ(笑) |
─── 悪戯が大胆なんだよなあ。早弁に町全体を巻き込んじゃうのがすごいなあ(笑)
実際に鐘を鳴らしてみる
─── (あたりにボ〜ンと良い音がなる)ああ、良い音ですねえ。
山下さん |
お寺のエピソードといえば、お地蔵さんの顔をもっとかっこよくしてやろうっていってノミで削り落としたこともあるんですよ。 後は、境内のカヤの木に蜂の巣があって、それに花火を仕掛けて火をつけたり…。 お坊さんには悪ガキとして目をつけられていたみたいですよ。 ちょっと来いってお坊さんに御堂中で地獄絵を見せられて「嘘ついたり悪いことをするとこんな目に遭うぞ」って説教を食らったりね(笑) |
─── あはは(笑)そりゃ、わんぱくだなあ!お坊さんもやるなあ(笑)
山下さん | 学校で買っていた金魚も赤い金魚だけじゃつまらないといって色を塗ってしまったりね。先生に叱られない日はなかったみたいですよ。 |
─── でも、悪戯の動機がピュアなのが好感が持てますね。単純な好奇心を試した結果って感じ。山下さんも教員でしたが、宗一郎のようなわんぱくな子どもはいましたか。
山下さん |
宗一郎ほどではないけど、わんぱくな子どもはいましたねえ(笑) 担任になった先生は大変ですけどね。でも、みんなどこか憎めない感じでね。 |
仕事も遊びも全力で 事業家として成功した宗一郎青年
小学校卒業後、東京都文京区湯島にあった自動車修理工場の「アート商会」に徒弟奉公に出た宗一郎。
仕事といっても10代の宗一郎に与えられるのは、雑巾掛けやお使いや子守りばかり。
しかし、翌年の関東大震災で事態は変わる。
火の手が回らぬうちに修理で預かった車を避難させなくてはいけないところへ「この時とばかりに」普段は触らせてさえもらえなかった車を初めて運転するのである。
災害後の混乱と多忙の中で、宗一郎にも自動車に触れるチャンスが巡ってくる。
運転を覚え修理工としてメキメキ腕を上げると、岩手県盛岡市に1人出張し消防車を修理するなど、数々の難題を乗り越えすっかり1人前になっていった。
徒弟奉公に出た6年後、「アート商会」にのれん分けをしてもらった宗一郎は22歳。この有望な若者は、浜松に戻って商売を始めるのである。
マスダヤ菓子店
本田宗一郎生家跡から徒歩1分ほどのところにあるのが「マスダヤ菓子店」。 本田宗一郎さんの故郷 静岡県浜松市天竜区(旧磐田郡光明村)を拠点とするオートバイクラブ「ポンポンCLUB浜松」の方々による展示が楽しめる。
展示の目玉は、本田宗一郎生誕100年を記念し作られた1/2にスケールダウンした「EVカーチス号」。
EVカーチス号
山下さん |
宗一郎自身がレースで車に乗ったのは2回。 1回目は1924年(大正13年)の第5回日本自動車競争大会。 宗一郎がアート商会にいた頃で、輸入車の車体にカーチスという飛行機のエンジンやダイムラー(ドイツの自動車メーカー)のエンジンを持ってきて作ったそうです。 宗一郎自身もメカニック(整備工)として同乗しました。 |
─── 結果はどうだったんですか。
山下さん | 見事優勝を果たしました。 |
マスダヤ菓子店 店内の展示より
─── すごい!優勝したんですね。ちなみに2回目は?
山下さん |
2回目は、1936年(昭和11年)の多摩川スピードウェイで行われた第1回全国自動車競走大会。 フォードをベースにした「浜松号」で出場したんです。 驚異的速さでしたが、突然出てきた車と接触して転倒してしまいました。 宗一郎自身は軽い怪我でしたが、弟の弁次郎は大怪我を負い、それ以降、宗一郎自身はレースには出場するのをやめたんですよ。 |
マスダヤ菓子店 店内の展示より
ぽんぽんサブレ
─── あ!可愛い!ぽんぽんサブレだって〜!おやつに買っちゃおうっと♪
可愛い〜
アート商会浜松支店(初代)跡
山下さん |
我々が今立っているのは「六間道路」という道路。 この道沿いに東京から帰ってきた宗一郎が最初に立ち上げた「アート商会浜松支店」や、戦後に立ち上げた「本田技術研究所」が建てられていた場所です。 本田技術研究所は、本田技研工業の前身ですね。では、まずは「アート商会支店」の跡地に行ってみましょう。 |
山下さん |
到着しました。ここが「アート商会支店跡」です。 跡地ですので何も残ってはいませんが、ここから浜松での第一歩を踏み出したんですね。 最初こそ従業員は宗一郎1人でしたが、修理の腕の良さが人を呼びました。 さらに、修理だけでなくて、当時、木製だった自動車のホイールを鉄製に変えて特許をとっています。 これがインドに輸出されるほどよく売れて工場も拡張。最盛期には50人ほどの従業員がいる大きな支店に成長しました。 |
アート商会支店跡
─── メキメキと頭角を現していったわけですね。
山下さん |
浜松号を作ったのもこの時期で、仕事の傍ら、派手に遊んでいたそうですよ。 料亭通いに芸者遊び、モーターボートを作って浜名湖で乗り回したり…。 この頃になると、町工場の社長というよりかは、1人の若き実業家としてみられていたようです。 |
─── かなり羽振りがいいですね(笑)。もう、人生上々じゃないですか。
山下さん |
いやいや、収まるところに収まらないのが本田宗一郎のすごいところ。 車修理だけでは満足できなくなって、製造業への転進を計画するんです。 その頃、宗一郎にはエンジンを構成する部品であるピストンにつけるピストンリングという部品を開発して製造したいという希望があったんですね。 ですが、その頃にはアート商会も会社組織になっていて、重役の中に反対する人たちがいたんです。 |
─── あらら。宗一郎の新しい挑戦をリスキーだと捉える人たちもいたんですね。
山下さん |
当時の宗一郎のストレスは相当なものだったんでしょうね。 顔面神経痛になってしまったそうです。 反対の者もいましたが、賛同者もいて、その人たちと一緒に協力してついには同意をもらえました。 その翌日、どこに行っても治らなかった顔面神経痛がころっと治ったそうですよ。 |
─── 曲技飛行を見に行ったエピソードもそうですが、「これがやりたい!」という意思がものすごく強い人ですね。でも、不賛同者の同意を得ずにやっちゃうとかそういう不義理なことはしないってところに人の良さを見ます。
山下さん |
アートピストンリング研究所をアート商会浜松支店に作り、そして、新たに東海精機重工業株式会社を設立します。 昼はアート商会の仕事、夜はピストンリング開発に没頭したそうです。 やっとの思いでこぎつけたピストンリング開発ですが、全然思うようにいかなかった。 |
ピストンリング – 光明小学校資料室より
山下さん |
困り果てて鋳物屋に助言を頼みに行っても「お前らの十年者にできてたまるか」と断られたり…。 経験や自己流じゃ駄目だ、学術的に学び直そうと浜松工高(現:静岡大学工学部)に聴講生として2年間学校に通ったんです。 |
山下さん |
1937年(昭和12年)の11月にようやくピストンリングの試作が完成しました。 自動車メーカーに交渉に行ってオリジナル部品の提案に行って、トヨタ自動車工業と契約を結ぶことに成功します。 ですが、3万本作った中から性能が良いのを50本選び製品検査に出したら、合格したのはたった3本。 |
─── うわ〜。それは足元から崩れそうになるな、自分だったら。
山下さん |
ご本人は「楽しい苦労だった」と後に懐古してますが、「一番苦労した」というのもこのピストンリング開発の時期なんですね。 アート商会浜松支店を開店してから、わずか6年。東海精機重工業株式会社が軌道に乗ると、アート商会浜松支店を人に譲り、完全に手放します。 ピストンリング製造成功から4年後、時代は太平洋戦争へと続いていくことになります。 |
─── ついに太平洋戦争が始まってしまうんですね。そこまで苦労して立ち上げた会社はどうなってしまったんですか。
山下さん |
豊田自動織機が大株主となった東海精機重工業株式会社は浜松では大企業の部類で、戦時中は軍需工場でした。 日本楽器製造株式会社(ヤマハ)中興の祖と呼ばれる川上嘉市(かわかみ かいち)とも親交があり、その著作のなかで「昭和のエジソン」と言わしめています。 なんでも、軍の命令で航空機のプロペラを製造していた日本楽器に依頼され、宗一郎は木製プロペラ自動切削機を考案しています。 それまでは1週間1本の手づくりだったものが、30分で2本作れるようになってしまったそうです。 |
─── 木製プロペラ自動切削機!大量生産や工期短縮を機械にやらせることで実現するっていう現代でも通用しそうな発明ですね。流石、先見の明があったんですね。
戦後の焼け野原から ホンダの礎を作った働き盛り
本田技研発祥の地
山下さん |
終戦から1年後、山下町の六間道路沿いに工場を建て、本田技術研究所を開設します。 実は、東海精機重工業株式会社の山下工場があったのですが、砲艦爆撃をくらい浜松は焼け野原になってしまっていました。ですので、疎開工場を移転するという形だったようです。 |
─── 終戦から1年後とのことですが、終戦直後の1年間は何してたんですか。あと、東海精機重工業株式会社の後身が本田技術研究所?
山下さん | 終戦後、宗一郎は「これから社会がどういった仕組みになるのかわからなければ事業なんぞやれない」と休業宣言をして1年間仕事から離れることを決めます。 それでね、東海精機重工業株式会社は休業宣言の時に売ってしまったんですよ。そのお金で設立したのが本田技術研究所。 |
─── 売ってしまったんですか!苦労して会社を大きくしたっていうのに未練が全くないですね。
山下さん | といっても、ものづくりは宗一郎にとって切っては切り離せないものですから、その期間にもスリガラスを作る機械やアイスキャンディー製造機、塩製造機などいろんなものを作っていたそうですよ。後は、将棋を指したり、尺八を吹いたりしていた。 |
─── 終戦後の物がない時代でも自分のアイデアや技術でそれをこしらえてしまうのはさすがですね。
山下さん |
当時から大胆な発明で「本田さんがまたバカを始めた!」と浜松では評判だったそうですよ。 ここが、その山下工場跡です。 |
本田技研発祥の地(蛇屋敷跡)
─── あれ?こんなとこに看板が立ってたんだ。この辺何回も通ったことあるけど知らなかったです。「蛇屋敷跡」って書いてありますね。
山下さん | ここには、江戸時代に尼寺があったそうですが、明治に廃寺となりその後を「蛇屋敷」と呼んでいたそうです。 |
昭和28年撮影の山下工場 – 「浜松市民の80年 写真集」より
山下さん |
本田技術研究所を立ち上げた宗一郎ですが、友人の家に訪れた時に軍放出の小型発電用エンジンと出会うんですね。 戦後しばらくは、インフラも整っていない上に物不足ですから遠くまで自転車で移動する人が多かった。 この小型エンジンを自転車用の補助動力に使うことを閃いたんです。 |
─── 有名な「バタバタ」の誕生ですね。
山下さん | そうです。これが大当たりし、研究所立ち上げから2年後の1948年(昭和23年)9月24日、「本田技研工業株式会社」を設立することになります。本田宗一郎44歳の時です。 |
─── 満を持して「ホンダ」が誕生したわけですね。
山下さん | 最初は焼け野原に転がっているエンジンをかき集めて、組み立て直していたようですが、それも数に限りがありますから自社で作れるようにエンジン開発に着手するようになります。 |
─── なるほど。そうやって徐々にできることを増やして、やがては自社でオートバイを作っていくようになったんですね。
山下工場の跡地に建つ「ドリーム館山下」に写真の展示があった
─── 宗一郎の隣のスーツの人、「増田サンソ会長」って誰?
山下さん |
元本田技研常務の増田儀一じゃないかと思うのですが…。 増田酸素工業所という機械部品製造の会社の経営者でもあり、友人でもあったそうですよ。 |
六間道路坂
山下さん |
売り物にするからにはしっかりと動くか確かめなくてはいけませんよね。 そのテスト走行におあつらえだったのが、工場の前の道路、我々の立っている六間道路だったというわけです。 |
─── ここでテスト走行してたんですか!
山下さん |
と言っても、当時はこんなに大きい通りじゃなくて、六間=約11mほどの幅しかなかった。 それでも当時、この辺の道路の中では幅が広くて、真っ直ぐ続く道があり、この先には坂もS字カーブもあるっていうので、最適だったんですよ。 |
六間道路空撮(昭和30年頃) – 「昭和のアルバム 浜松・磐田・浜北」より
山下さん | 当時、浜松には30社以上のオートバイメーカーがあり、いろんなメーカーのバイクがテスト走行していたそうです。 |
山下さん |
ちょうど今、坂道の手前まで歩いてきました。 後ろを振り返ってみると、どうですか。 |
─── まっすぐな道ですねえ。当時は信号もなかっただろうから、止まることもなく走ってこれたのかなあ。
まっすぐな道
山下さん | では、これから六間道路の坂を登ってS字カーブを見下ろせる場所までいきましょう。 |
緩やかな坂
山下さん | 当時はコンクリート舗装もなかったですから、砂利道や土の道だったんですよ。 |
─── 今じゃ舗装されていない道路の方が珍しいから想像が難しいなあ。タイヤが滑りそう。
S字カーブ
山下さん | 六間道路があったから山下工場を建てたのか、山下工場のあったところにちょうど都合の良い道があったのか、うまいことできてますよね。 |
宗一郎という生き方を知る 本田宗一郎ものづくり伝承館
今回、取材の締めを飾るのは浜松市天竜区にある「本田宗一郎ものづくり伝承館」。
郷土の偉人 本田宗一郎の考え方や生き方を広くの人々に伝えていくとして、遺品の展示やものづくりワークショップなどを行っている。
今回は、本田宗一郎ものづくり伝承館を運営している「NPO法人本田宗一郎夢未来想造倶楽部」の理事長 三室さんと副理事長 太田さんに館内を案内していただいた。
─── 本日はよろしくお願いします!本田宗一郎ものづくり伝承館とはどういった施設なんですか。
三室さん | 本田宗一郎さん(以下:本田さん)は天竜で生まれた郷土の偉人ということで、市民の皆さんに本田さんの人柄や偉業を知ってもらう、また、本田さんのものづくりの精神を通じて、ものづくりってこんな楽しいんだよと皆さんに興味を持ってもらう、そんな施設を目指して展示やワークショップの開催をしています。 |
─── 「NPO法人本田宗一郎夢未来想造倶楽部」はどういった団体なんですか。
太田さん | もともと「本田宗一郎顕彰会」という会があったんです。 本田さんの偉業やものづくり精神を市民の方々にPRしていこうと活動をする会なんですが、その当時は旧天竜市が浜松市に合併する前の時代で、活動の一環で天竜市に本田宗一郎記念館みたいなのを作りたいという思いがあったんです。 |
向かって左から、太田さん、三室さん
三室さん |
記念館を計画している最中、浜松市と合併になり、その計画もたち消えてしまうような状態になってしまったのですが、様々な方面の方々からの応援があって、浜松市でも「そういった施設をやるようなら設備は協力するよ」と。 でも、運営は市ではできないからうちでやってくれないかということになり、この伝承館のオープンとほぼ同じ時期にNPO法人を立ち上げました。 |
─── なるほど。そんな経緯があったんですね。この建物は浜松市のものということ?
太田さん |
そうです。いわゆる、公設民営ですね。 実は、この建物は旧二俣町庁舎だったんですよ。外観はそのままに、耐震工事を施し、内装を作り替えたんですよ。 |
館内をご案内いただく
三室さん |
展示は1階と二階にあります。 1階は、本田さんが関わった製品関係。二階は、図書や映像などのアーカイブと地域の作家さんたちが展示やワークショップを行うスペースがあります。 |
三室さん | 1階の中央にあるバイク達は、3ヶ月から4ヶ月毎に展示が変わります。 |
─── そんな頻繁に変わるんだ!
太田さん | ホンダさんの協力を得て、ホンダコレクションホール(栃木県にあるホンダのミュージアム)から展示品を貸し出していただいているんですよ。 |
ベンリイ CB92 スーパースポーツ
三室さん |
今来ているのは、「ベンリイ CB92 スーパースポーツ」。 ね、かっこいいでしょう? つい先日は、ナナハンの大きなバイク、ドリームCB750が来てたんですよ。 すごくかっこよくて…その時撮った写真を携帯の待ち受けにしてます。 |
─── 展示品の中で一番おすすめなのあります?
三室さん 太田さん |
やっぱりスーパーカブかな! |
スーパーカブC100
三室さん | 皆さんご存知のスーパーカブですけど、ここに置いてあるのはスーパーカブ初代のC100ってモデル。スーパーカブは基本的な構造はずっと同じで、当時の意匠を大事に継承していってます。 |
─── やっぱりスーパーカブは可愛いなあ。
太田さん | 1958年発売でもう60年以上経っているけど、全然色褪せないというか、現代でも受け入れられるデザインですよね。 |
三室さん |
本田さんはデザインにもこだわりがあったんですよ。 大衆は優れたものをかぎわける目と選び出す力を持っている、と。 だからこそ、妥協を排して自分を偽らずに素直に表現することで新しいデザインにつながると著作の中で書き残していますよ。 |
三室さん |
本田さんっていろんな言葉を残してるんですよね。 チャレンジ精神をすごく大事にしている方で、オリジナリティも同じくらい大事にしてた。 “優れたアイデアも考える人間あってこそ”というので「アイデアは人間だ」という言葉も残してます。 |
太田さん |
こちらは「カブF型」っていう自転車用補助エンジンです。 カブっていうとスーパーカブが有名ですが、この「カブF型」が初めて「カブ」という名前を冠した製品なんですよ。 |
三室さん |
エンジンを駆動するとバタバタバタバタって音がするので通称「バタバタ」って呼ばれてました。 年に2回くらい当館でもエンジンかけますよ。 最初は人力でペダルを漕ぎます。そうするとエンジンが点火して自動で車輪が回り出します。 |
─── え!まだ動かせるんですか。すごいな!
山下さん | 「白いタンクに赤いエンジン」のキャッチコピーで販売され、大ヒットを飛ばしたんですよ。 |
三室さん | 当時、定価で2万5000円。当時の平均的サラリーマンの初任給3カ月分以上だったから高級品ですよ。でも、みんな欲しかった。 |
太田さん |
本田さんが自転車用補助エンジンを最初に思い付いたきっかけは、奥さんが戦時中に買い物に行く時に遠くまで行かなくてはいけないのが大変だったから。 奥さんのために、が出発点なんですよ。最初のテストライダーも奥さん。初号機に乗って実家のある磐田市郊外まで買い出しに行ったそうです。 ちなみに、この「カブF型」は初代の自転車用補助エンジンから5作目の自転車用補助エンジンです。 |
三室さん |
本田さんの製品ってそういうことがきっかけのことが多いんです。人の役に立つものを作りたいっていう精神ですよね。 このカブF型は、売り方もすごかった。 経営のパートナーで副社長だった藤澤さんって人がいるんですが、卸を通さずに全国の自転車店にダイレクトメールを送ったんです。 これが当時は画期的で、ホンダの取り扱い店が一気に増えたんですよ。 |
太田さん | 営業や経理関係は藤澤さん、製品開発、技術面は本田さんとお互いを支え合ってホンダという会社を大きくしていったんですよ。 |
─── へえ〜!知らなかった。ワンマンのイメージがあったけどツーメン経営だったんですね。
アート商会時代の写真
─── これはアート商会浜松支店時代の写真ですね。めっちゃ従業員いるなあ。…これ、どれが本田宗一郎ですか?
三室さん |
本田さんはねえ、この人。 1人だけ全然違うでしょう?やんちゃというか。 |
本田さんはいずこ
─── ええ!グラサンの!?一番やんちゃしてそうな人じゃないですか。そこにあるおじいちゃんの肖像画からは想像つかないなあ。
晩年の肖像画
山下さん |
私は、その下にある古い地図が気になりますねえ〜。 ついつい眺めてしまいます。 |
地図を眺めてわいわい
三室さん | 浜松市役所が昭和27年に新築されるまで、市役所のあたりに本田さんが住んでいたのはご存知ですか。 |
この辺りに住んでました
─── え?あの辺に住んでたの!?全然、知らなかった。
太田さん | 「市役所作るからって追い出された」って本人は冗談めかして言っていたそうですよ。 |
─── あはは(笑)
山下さん | 昭和25年に東京の営業所を設立して東京に進出したので、本人的にも立退のタイミングはちょうど良かったんじゃないかなと思いますけど(笑) 本田宗一郎らしいエピソードですね(笑) |
三室さん |
こちらが関連書籍の本棚。 ご本人の書籍やホンダ関係の書籍、児童書まで取り揃えています。 貸し出してはいませんが、この場で読んでいただくことはできますよ。 |
関連書籍がずらり
山下さん | 私が紙芝居を作るときに参考にした「空とぶオートバイ」という児童書があるのですが、小説のようなストーリーで書いてあるのですごくわかりやすくておすすめです。 |
─── (パラパラと本をめくる)いいですね。これ、絵は絵本作家の阿部 肇かあ。いいですねえ。
空とぶオートバイ
─── 最後に来館者に向けてのメッセージいただけますか。
三室さん |
展示を見ていただき、本田宗一郎ってこんな人だったんだと感じてもらえるように当館も努力してまいりますので、地元の方々にもぜひ立ち寄って欲しいなと思います。 ホンダという世界的な企業を作った人がこの天竜という地で育ったんだよっていうのを感じてもらいたいですね。 |
太田さん |
本田さんは色んなことに興味を持っていた方なんだなと、当館ならではの展示を見て感じてもらえると思います。 ホンダ基準を作り上げた技術者としてのこだわりだとか、徹底して研究してものを作り上げる姿勢だったりそういった姿を展示を通して伝えて行けたらいいなと思います。 ぜひ、一度お越しください。 |
記事を書くに当たって何冊かに目を通したのだが、一体、何回「ばかやろう!」の文字が出てきたのだろう。
「“地震雷火事親父”とはこのことか!」と平成生まれの私はおののいた。正直、近くにいたら萎縮してしまうような、ザ・昭和のオヤジ。
ものを作る時も、怒る時も、遊ぶ時も、一生懸命。すごい人生を生きた人だ。
それなのに、どこかあっけらかんと飄々として、シャレや口調もその辺のおじさんみたいだ。いわゆる、いかなる時も立派な偉人像を想像していた私は「こんな人だったか」と思わずニヤリとしてしまった。
読破した本の冊数が増えるたびに“本田宗一郎という昔の偉人”がどんどんリアリティを持って感じられ、終いには、“どこか憎めなくて、面白くて、尊敬できるおじさん”になっていった。
当時の建物は残ってないけれど、跡地を歩くことで感じるものは多かった。ただの道路だった風景が全く違うものに見えた。
がむしゃらに生きた宗一郎の半生の軌跡を辿ってみると、不思議と元気が湧いた。
お前も頑張れよと言ってくれそうな気がした。
「ばかやろう!」と頭をぽかりとやられないように、今一度、自分に喝を入れよう!
…期せずしてこの取材は自分にとってカンフル剤になった。
- 本田宗一郎関連
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ホンダ50年史(出版/八重洲出版)
私の手が語る(著/本田宗一郎)
本田宗一郎 男の幸福論(著/梶原一明)
もう1人の本田宗一郎 本気で怒り、本気で泣いた男(著/原田一男)
空とぶオートバイ(著/那須田 稔)
Honda | 語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜(https://www.honda.co.jp/50years-history/) - 大正昭和の浜松関連
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目で見る浜松の100年(監修/鈴木正之)
昭和のアルバム(監修/浜松歴史写真研究会)
浜松市民の80年写真集(発行/静岡新聞社、監修/浜松市制80年史調査会)
この記事を書いた人
- 猫と一緒に暮らし始め、猫アレルギー疑惑が払拭されました。猫の毛ってすごい空中に舞いますね。ふわふわ。
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