徳川家康300年の歴史を刻む出世城

浜松市中区

徳川家康が17年間在城した浜松城は、江戸幕府300年の原点となった場所です。
歴代城主の多くが後に、江戸幕府の重役などに出世したことから「出世城」と呼ばれてきました。
そんな浜松城は、歴史ある石垣の上に天守門を140年ぶりに復元した城です。

今回は浜松城の歴史に触れながらじっくりと探索していきましょう。

浜松城までの探索

駐車場を降りるとすぐに浜松城・・・というわけでもなく、浜松城公園へ着きます。
浜松城公園を探索しながら浜松城へと向かっていきます。

浜松城_徳川家康300年の歴史を刻む出世城|ハマラボ[ハママツ研究所]

結構広いですね。自然があって素敵なところです。

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はじめに見えてくるせせらぎ池です。
カモがいました!涼しそうに水の中を泳いでいます。

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何の種類の鳥かは分かりませんでしたが、野鳥もいました。自然豊かですね。

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せせらぎの池を越え、案内板に沿って進んでいきます。少し山のように緩やかな坂になっています。

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しばらく歩くと、浜松城展望撮影スポットへ着きました。
写真を撮ってみると・・・緑の中の立派な天守閣。とてもいい感じに撮れました。
まだ遠いけれどワクワクしてきます。

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さらに進んでいくと立派な門が現れました。
なかなか雰囲気があっていいですね。
浜松城へ続く入口は「東門」「北門」「南門」と三か所に分かれているようです。

門をくぐると道が開けてきました。

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自然に囲まれてのどかな雰囲気ですね!
お散歩コースにはもってこいの場所ではないでしょうか。

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こんな場所を見つけました。どうやら敷地内の日本庭園までたどり着いたようです。
橋と自然が、何とも言えない和の雰囲気を醸し出しています。
わびさびを感じますね。

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ここは「滑滝」といわれているそうです。
斜面を伝い落ちる形の滝で、水の落ち方に変化をつけるための工夫が凝らされているよう。
水の量や周囲の四季の変化によって、様々な景色が作られて天竜川の一景観としても見ることができるそうです。

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水の音ときれいな日本庭園・・・とても癒されます。
四季それぞれの景色もぜひ見てみたいものです。

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日本庭園を通り抜けると天守門が見えてきます!
白地に黒色の模様をまとった家紋の旗が揺らめく姿・・・かっこいいですね。
この家紋は、「葵紋」と呼ばれていて徳川家が使用する、特別な家紋でした。
葵紋とは、フタバアオイと言われる植物を家紋にしたもので、水戸黄門での決め台詞「この紋所が目に入らぬか」で知られるようになった、葵の御紋のこと。
当時は悪党が、この葵紋を見ただけで抵抗をやめてしまうほど、とても権威のある家紋だったようですよ!

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「天守門」です。
天守門は、天守台の東に位置する櫓門(やぐらもん)で、浜松城の特徴的な存在です。平成26年3月に復元されたそうです。

ミニ知識 “門脇の鏡石”

天守門の石垣正面は、左右ともに隅に巨石が用いられています。
この巨石を鏡石と呼ぶことがあり、かつて城の壮大さや権力をみせるため門の両側や周辺に意図的な大きな石を用いたといわれています。
巨石を用いた部分は、角部を強固するための積み方にはなっていないというのが特徴です。

かがみいし・・・左右対称にあるからそう言われているのでしょうか。こういった意味を持っての日本語は本当にきれいな言葉ですね。

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後姿もきれいです。

そしていよいよ石垣で出来た浜松城天守閣が見えてきます。

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これが浜松城・・・!
復元したものとはいえ、これほどクオリティが高いと本物の浜松城はどれだけ凛々しいお城だったのか・・・白と黒のシンプルさがとてもかっこいいですね。

浜松城の”石垣”ミニ知識

浜松城は石垣で出来ていますが、石垣は「天守曲輪(てんしゅくるわ)」と「野面積み」の二種類に分かれています。

天守曲輪
曲輪とは、城やとりでを石や土で囲んだところです。
浜松城では、天守曲輪の他、清水・西端城作左の三つの曲輪がありました。作左曲輪の由来は、譜代家臣の本多作左衛門重次が構築したからといわれています。
野面積み
浜松城の石垣は、自然石を上下に組み合わせて積み上げる野面積みです。
表面に隙間があり、一見崩れやすいように見えますが奥が深く、内側に小石や砂利を詰めてあるため、水はけもよく堅固です。江戸時代初期以前までは、よくこの方法が用いられ現存する石垣としては、彦根城、竹田城、そして安土城にも用いられたといわれています。
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近くに井戸がありました!
この井戸は「銀明水」と呼ばれていたそうです。
後に調べたところ銀明水とは富士山の、浅間神社奥宮の東方に湧き出す泉のことだそうで、神聖な水=霊水として知られていたそう。

この他にも浜松城には全部で10本の井戸があったといわれています。
その内のひとつ天守台の井戸は、再建のときに残し今は天守閣の地下室にあります。
直径1.3m、深さは現在1mほどになっています。

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徳川家康の像です。
三方ヶ原の合戦で、無残にも敗北した家康は自らの姿を像として残し、生涯この敗戦を忘れないようにしたといわれています。
敗北というのは将軍としては大きな恥だと思いますが、それを公けにするというのはとても勇気のいることですよね。
そんな方だったからこそ、出世できるのかなぁと思ってしまいました

浜松にまつわる、なるほど~!なエピソード

ここで意外と知られていないおもしろエピソードを紹介していきます!
思わず、なるほど~!と思ってしまうかも?

1.八幡宮と雲立ちの楠
三方ヶ原の合戦に敗れた家康が、八幡宮に敗走して楠の洞穴に忍び、敵から逃れて作戦を練っていました。
すると楠の上に雲がかかり、犀ヶ崖の勝利を得てその後、楠は「雲立ちの楠」と呼ばれたそうです。
2.小豆餅と銭取り
家康が三方ヶ原の合戦で、武田勢に追われて逃げ帰る途中でお腹がすいてしまい、動けなくなってしまいました。
ふとあたりを見回すと、茶屋で小豆餅を売っています。おばあさんから小豆餅をもらい食べていると、そこに武田勢がやってきました。
慌てて逃げだす家康に、おばあさんもびっくり。「食い逃げは許しません!」と追いかけることなんと数キロ!
無事、代金を受け取ったそうです。その後、その茶屋があった場所を「小豆餅」と。
そして銭を受け取った場所を「銭取」と呼ばれるようになりました。
おばあさんの脚力も侮れませんね・・・!
3.白尾(しらお)
三方ヶ原の合戦の負け戦で、家康は白尾に乗って八幡神社へ。八幡神社の洞穴へ隠れていましたが、馬のしっぽが見えてしまっています。
すると通りかかった村人が「お殿様。白尾が見えています。」と教えてあげました。
家康は慌てて白尾を隠し、武田軍の追い手を逃れることができました。
家康は、恩賞として村人に「白尾」という名字を与えたといわれています。
4.粥(おがい)
家康は敵の追い手から逃げているうちに空腹になり、ある農家へ入りました。
老夫婦はびっくりしながら「とてもお殿様にあげるようなものはございません。」と言いました。
家康は「空腹にまずいものなし。一杯くれ」といい、お粥を一杯ならず何杯も食べました。
のちにお粥をごちそうになった礼として、「粥(おがい)」という名字を与えました。
粥家はその後、庄屋をつとめ代々栄えたといわれています。家康は将軍という地位をもっていながら、人情深い人物だったのですね。
結果報告

出世城と広く知られていますが、石垣の種類など知らなかったので、色々な発見がありとても勉強になりました。
住んでいる地域のお城も詳しくなっておくのもいいなと思いました。
他にも家康ゆかりの地、旧跡や名所を巡る散歩道など、面白そうな見どころもたくさんあるので、歴史に触れながら探索してみてはどうでしょうか?

この記事を書いた人

西友
西友
ライター見習い、なんでもやります、だから許してください。

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