法多山の時代の流れに触れてみた

法多山の時代の流れに触れてみた

袋井市

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法多山は寺号を尊永寺と称する、高野山真言宗(こうやさんしんごんしゅう)の別格本山と知られています。
厄除け団子などで有名ですが、今回は、法多山の境地内にある建物の歴史を調査しました!
意外と知られていない法多山での、時代の流れをぜひ感じとってみてください。

全体が黒く塗られていることから、黒門ともいわれている「山門」。そこから「法多山本堂」まで約15分、江戸時代より伝わる法多山名物の厄除だんごで有名な「だんご茶屋」まで約8分かかります。

 法多山_法多山の時代の流れに触れてみた|ハマラボ[ハママツ研究所]

法多山と黒門の時代の流れ

仁王門から参道を少し歩くと、黒色の門が現れます。これが黒門です。
建立は1712年、指定建造文化財にも登録されている由緒ある門なのです!
昔はどういった役割をしていたのか気になったので調べてみたところ、法多山全体と大きく関わっていたことが判明しました!

 法多山_法多山の時代の流れに触れてみた|ハマラボ[ハママツ研究所]

現在の法多山にあるお寺は、尊永寺一つだけですが、昔は12ものお寺が境内に並んでたようです。だからこんなにも広いのですね・・・!
でも、どうして尊永寺一つだけになってしまったのでしょう?

どうやら明治に入るまで、参道添いの石垣の上に寺が立ち並んでいて、それぞれ住職さんが住んでいたそうです。
その中でも、ひときわ目立っていたのが「学頭院 正法院」と呼ばれる寺。そして黒門はその正法院の入口だったのです。
しかし、明治時代に入ると寺のあり方も大きく変化して、“ひとつの山にひとつの寺”という意味での「一山一寺」を合言葉に、寺同士が統合され、尊永寺と総称されるようになりました。
日本は昔から山岳信仰があると聞くので、山=ご神体・ご本尊という考えからこういった決断が下されたのでしょうか?

寺同士が統合されたこともあって、寺の入口としての役目を失った黒門でしたが、現在では多くの観光者を立派な「門」として迎え入れていますね。

一歩足を踏み入れた先には、品格が漂う日本庭園。中心にある松は、徳川家康手植えの松なのだそうです。

熱冷ましの神様

 法多山_法多山の時代の流れに触れてみた|ハマラボ[ハママツ研究所]

今では、どこにでも売っていて安価な値段で手に入れることができる氷。
しかし、昔は特別なものとして扱われていたそうですよ。
清少納言の枕草子や紫式部の源氏物語の中には、暑い夏には氷を体に押し当て涼んだり、削った氷にシロップをかけて食していたと描かれているそうです。つまりは、貴族たちが重宝していたようですね。
冬の間に凍結させた氷を貯えていたのが「氷室」と呼ばれる貯蔵庫で、その氷室が神格化したものが「氷室神社」といわれています。

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火の病といわれ、平清盛を死に追いやった熱病マラリアの治療にも氷が使われたそう。昔は医療技術も免疫力も今ほど高くないため、高熱が続くことは命の危険を意味していました。貴族の身であるものは氷が使えますが、庶民にとって氷は手が届かない存在であり、氷の神様に祈り、お願いすることしかできませんでした。
その人々の想いで神格化し、今ある氷室神社ができたといわれています。
“想いで魂が宿る”という言い伝えをよく聞きますが、まさにこういったことでしょうか。

今では医療技術の発達により、高熱で死亡する人も少なくなりましたが、それでも氷室神社は人間の様々な“熱”を下げてくれる神様として、今も信仰を集めているようですね。
例えば、ギャンブルやお酒、悪縁など、「離れたい!」と思ってもどうしても離れられない“熱しすぎているもの”に対する熱さましも信仰対象のひとつとなっているようです!
神聖な神社に御参りすることできっと心を沈静化してくれるのでしょうね。納得です。

女性のためのお社

法多山境内にある、鐘つき堂の陰に隠れるようにそっと佇む鳥居。
その幾つも連なる赤い鳥居をくぐると、小さなお社が現れます!「二葉神社」です。

 法多山_法多山の時代の流れに触れてみた|ハマラボ[ハママツ研究所]

戦前、浜松市の鴨江二葉町にあった「二葉遊郭」と呼ばれる場所に祀られていたものです。
二葉町は浜松一の歓楽街といわれ、花魁以外の店員さんもすべて女性という全国的にも珍しい遊郭だったそう。
このお社は、そんな二葉遊郭で働く女性たちがお金を出し合い、建立したものといわれています!
ご利益は恋愛成就、商売繁盛などだそう。

しかし、昭和31年に解体を余儀なくされます。信心深い彼女たちはお社を潰すことはできず、安住できる場所法多山へと移行しました。

健気な想いを持った女性たちとともに歩んできた二葉神社。言うなれば、多くの女性たちの心の支えだったのかもしれませんね。

厄除け団子を味わう

法多山の名物のひとつにご存知「厄除だんご」があります。手土産としても有名なだんごですよね!
今では、参拝に訪れたほとんどの人が買っていくほどの人気ぶりですが、ことの始まりは法多山に住んでいた、石川八左衛門が手作りのだんごを徳川家に献上したという逸話なんです。
当時、十三代将軍だった徳川家定公がその味を気に入り「串だんご」と命名しました。

 法多山_法多山の時代の流れに触れてみた|ハマラボ[ハママツ研究所]

さっそく頂いてきました!よく知られた5つ連なった形です。
あんこがたっぷりですが、甘すぎず小ぶりなためペロッと食べられちゃいます。

現在、厄除だんごは1か所で販売されていますが、その昔、昭和41年以前は、なんと法多山境内に小さなだんご茶屋が15軒も立ち並んでいて、競うかのようにだんごを売っていたそうなんです!味やサービスは店ごとに異なっていたようですが、形はどこのだんご茶屋も今と変わらないあの形状だそう。
きっと参拝後に、自分お気に入りのだんご茶屋を見つけて立ち寄るというのが楽しみだったのでしょうね!
目移りしてしまいそう・・・!

本来の「お寺」

昔のお寺と、今わたしたちが感じているお寺の雰囲気は少し違うのかもしれません。
お気に入りのだんご茶屋で境内の美しい景色を眺めながらだんごを食べたひと、江戸からやってきた旅芸人の芸を楽しみにお寺へ向かったひと、お祈りしたいことがあって参拝しに来たひと。
寺に行けばおいしいものが食べられる、寺に行けば楽しいことがある。「寺」とは本来そういう場所だったようです。
いろんな人と出会い、楽しみ、学べる、各地域の“縁”の中心地だったといわれています。

変化というものはいいこともある反面、昔の風景が失われていくことは少しさみしくもありますね。
「昔はこういった文化があったみたいだよ」というのを、同世代や私より年齢が下の方にも知ってもらいたいなぁと思いました・・・!

 法多山_法多山の時代の流れに触れてみた|ハマラボ[ハママツ研究所]

かわいいキャラクターお面とお土産屋さんが、なんだかレトロな雰囲気の写真を載せたところで、今回の調査を終了いたします。

結果報告

過去に一度だけ、法多山に行ったことがありましたが法多山の“時代の流れ”というのは、今回の調査で初めて知ったことばかりでした。
かつての、法多山という場所。浜松という場所。昔のひとびとの風習。それぞれの先に、今の法多山があるということ。とても深く、時代の流れを感じとることができました。
もし、法多山に行く機会がありましたら、少しでも思い出しながら巡って頂けたら嬉しいです。

この記事を書いた人

ハママツ研究所
ハママツ研究所
浜松を愛し、浜松に愛されることを目指して日々研究に没頭中

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