浜松市美術館で仏像だらけの展覧会 「みほとけのキセキ-遠州・三河の寺宝展-」
公開日:2021/04/01
アート好きの皆さん必見!
この春、浜松市美術館でちょっとマニアックな「〇〇だけを集めた」展示が始まりました。
その〇〇とは…
仏像!
仏教美術というとお堅いイメージがありますが、実は、ユーモラスで想像豊かな仏像の世界。
摩訶不思議な仏の世界をアートを通して少し覗いてみませんか?
事前に「仏像入門講座」でお勉強
今回の展示を100%楽しむために、浜松市美術館主催の事前講座で見所をお勉強。
私が参加したのは、2月26日に引佐恊働センターにて行われた、出張講座「仏像入門講座」。
この展覧会を企画した浜松市美術館の学芸員、島口直弥さんが講師として展覧会のポイントや見所を教えてくださるとのこと。
引佐恊働センター
浜松市美術館の学芸員 島口直弥さん
先着30名の講座でしたが、あっという間に定員に達したそうで近頃の仏像人気が伺えます。
さらに講座には特別ゲストとして、湖西市の応賀寺の住職 道家成弘さんがお話してくださいました。
応賀寺の住職 道家成弘さん
実は、応賀寺の住職さんのお話を聞くのは二回目。
以前、浜名湖七福神めぐりをした際に、恵比寿様についてとても丁寧に教えてくださったのが嬉しかったなあ。
講座の様子
簡単な仏教の知識から、さらに踏み込んだ仏教彫刻の世界、遠州・三河地方の歴史まで多岐に富んだ内容で、ますます今回の展示が楽しみに!
実は、こういった美術館の主催する講座に参加したのは今回が初めて。
大人になってから好きなことを学ぶのって面白いですね。
さて、気になる講座の内容ですが、せっかくですので展示の写真と併せてご紹介していきますね。
みほとけのキセキ-遠州・三河の寺宝展-
「みほとけのキセキ-遠州・三河の寺宝展」は、遠江国に属した浜松市、袋井市、湖西市と三河国に属した豊橋市にあるお寺の宝物が集結する企画展。
展示の目玉は何といっても仏像を中心した貴重な文化財。
最も古い仏像で今からおよそ1000年ほど前に作られたものが陳列されており、今回の展示のような特別な機会でもないと、滅多にお目にかかれない仏像ばかりですよ!
島口さん |
実は、今年は浜松美術館開館50周年の年なんです。 そして、50年の間、展覧会を開催してきましたが、実は仏像に真正面からアプローチした展覧会はこれが初めてなんですよ。 |
今回の展示は浜松美術館にしてもチャレンジな企画なんですね。
学芸員さんに聞く「姿でわかる仏様の種類」
仏像を鑑賞する上で押さえておきたいのが、その仏像がどんな仏様なのかということ。
鑑賞する仏様がどんな仏様なのか分かるともっと仏像の世界が面白くなりますよ!
島口さん |
今回の展示では「如来、菩薩、明王、天部」の4つに分けてご紹介しています。 仏様の説明の時に、よく聞かれるのが「どの仏様が一番偉いんですか?」という質問。 |
─── 仏の世界には位があるんですね。
島口さん | 大前提として、どれも大事な仏様なので位付けするのは仏教的には本意ではないと思いますが、あくまで仏様の世界ではこういう位置付けがあるよということですね。 |
島口さん | 子供たちに聞くと、菩薩の方が装いがきらびやかなので「菩薩の方が偉く見える」という答えが返ってくるんですが、実はそうではないんですよ。如来になると悟りを開き、全ての欲がない状態なので着飾ったりとかしないんです。 |
仏像マニアを目指す方は
いざ、仏の世界へ!仏像を鑑賞
一階の展示室 入り口
今回は特別に展示公開前にお邪魔させていただきました。
まず、目に飛び込んできたのはこちらの三体。
いかつい仏像が三体
むむ!
こら!
いかにも強そうな鎧と武器を身にまとい、迫力のある顔面。
こちらは、向かって右から「増長天立像」「広目天立像」「多聞天立像」。
先ほど紹介した4つの位でいうと「天部」にあたる仏像です。
愛知県豊橋市の普門寺というお寺の宝物です。
島口さん | もともと他の宗教の神様を仏教の世界に取り入れて作られた仏様である天部は、それゆえにしっかりとした決まりは定まっておらず、いろんな形の仏像が作られています。 |
島口さん |
今回の展示では、どれも鎧を身に纏って武器を持って外から仏の世界に敵がせめてきた時にそれ追い払って仏の世界を守る、そんな姿をしている天部の仏像が多く展示されています。 注目して欲しいのは、足元。退治された邪鬼が踏みつけられているんです。この邪鬼のユーモラスな表情は必見です。 |
力強く踏みしめた足の下にいる邪鬼
ぎゅむ
多聞天立像は二匹も捕獲
お次に待ち受けていたのは、今回の展示で一番古い仏像 摩訶耶寺の「千手観音」。
手の仕草の柔らかさが美しく、何だか女性的な優しげな雰囲気。
こちらの観音様は4つの分類の中では「菩薩」の位に属する仏様。
島口さん |
菩薩様は首飾りやブレスレットつけていたりとてもおしゃれです。 修行中の身ではありますが、人々を救ってくれる仏様なんですよ。 菩薩様はいろんな姿で表現されます。頭のところにたくさんの顔がついた「十一面観音菩」や千の手を持った千手観音などが有名です。菩薩様の種類を調べてみるのも面白いですよ。 |
上腕のところに腕飾り
手首にはブレスレット
島口さん |
腕は全部で42本。正面で合掌している2本の腕を除く、その他の腕を脇手と言います。 脇手1本で25の世界を救うと言われます。40(の脇手)×25(の世界)=1000になりますでしょう?だから、千手観音なんですよ。 |
─── なるほど!25人じゃなくて、25の“世界”っていうのがスケールが大きい。
今回の展示に際して修復作業を行っている仏像もあるとのことで、この千手観音も修復作業を受けた仏像の一つ。
島口さん |
今回の展示に際し、輸送困難な仏像があることが明らかになったんです。 そこで、お寺さん、県、市がお金を出し合って修復作業を行いました。 修復後に初お披露目になります。 |
修復されたことによって新たな発見もあったそうですよ。
島口さん | 修復作業の際に、像表面の汚れを除去したら一部の脇手の手のひらに眼が描かれていたことがわかりました。 |
なんと!ひょんな事から新事実が発見されることもあるんですね!
ぜひ、45本ある脇手の中の「手のひらに眼のある一本」を探してみてください!
見つけた方はぜひ携帯で撮影して、待ち受けにしとくとご利益ありそうです。
千手観音立像の部屋を抜けるとお次は如来ゾーン。
西楽寺の薬師如来坐像
如来像はこれぞ仏像、仏といった姿。
日本昔ばなしなどに出てくるあの仏様はこの如来だったんですね。
応賀寺の阿弥陀如来坐像
─── 仏様と言ったらやっぱこのパンチパーマだよなあ。これは、パンチパーマをお団子にゆった髪型?
島口さん |
お団子ヘアではなく、頭が二段になっているんです。 如来は悟りを開いているのでたくさんの知恵を持っています。 知恵が詰まりすぎて頭からポコンと知恵の塊が飛び出てしまっていると、そんなふうに思っていただけるとわかりやすいかな。 |
─── 知恵の塊なんですね。頭に綺麗な玉がついているのは?
島口さん | 頭に赤い玉、額に白い渦巻きがあると言われています。 赤い玉は知恵の象徴。そこから赤い光が出ると言われています。額の渦巻きは白毫(びゃくごう)といい、光を放ち人々を救うと言われてます |
白毫を玉で表現
その反対側に待ち構えていたのは、普門寺の不動明王立像。
戦う気満々というか、なんか怒ってません!?という佇まいの明王。
島口さん | 何だか怖いイメージですが、実は如来が姿を変えたのが明王だと言われています。 |
如来は基本的には優しく教え諭すように人々を導いてくれる仏様なのですが、なかなか優しく諭すだけでは教えを守れないのもまた人間。
島口さん | 私には二人の子供がおりまして、普段はできるだけ如来のように「こうするといいよ、頑張って!」とか優しく諭すようにしています。でも、子供ってそれだけ言っても聞かない時ってあるじゃないですか。 そんな時は「こら!いい加減にしなさい!」と言って叱ります(笑) 簡単にいうとそんな姿が明王です。如来も明王どちらにしても教え導くという方針は変わらないんですよ。 |
悪い子はいないか!
怖い見た目に反し、心のうちは優しかった不動明王。
両脇に二体の子供の像を伴って作られることもあるとのこと。
島口さん | 「不動三尊」といって平安時代から鎌倉時代以降に作られることが多くなっていきました。 傍にいる子供ですが、右が矜羯羅童子(こんがらどうじ)と左が制多迦童子(せいたかどうじ)と呼ばれます。 |
矜羯羅童子(こんがらどうじ)
制多迦童子(せいたかどうじ)
島口さん | 真ん中の不動明王はすごく怖いですが、子供の像はすごく可愛いです。そのギャップも楽しんでもらえたらなと思います。 |
一階だけで10体の仏像を楽しむ事ができ、見応え十分。
ですが、まだまだ展示は続きますよ!階段を上がり2階展示室へ。
2階展示室
普門寺 阿弥陀如来坐像
普門寺 釈迦如来坐像
所々に金色の塗装が残る
こちらの普門寺の釈迦如来坐像も修復を行った仏像の一つ。上の写真でも所々に金箔が施されているのがわかります。
このように、仏像の表面には漆や金箔、彩色が施されていることがあるそうで、輸送の際や歳月が経つと剥がれてしまう恐れがあるため、これ以上剥がれないように固定接着をする修復をする必要があるそうなんです。
島口さん |
普門寺の釈迦如来坐像の修復を行ったのは7月でしたが、かなり暑い中で技師さんが汗だくになりながら一生懸命作業してくださいました。 |
修復作業というともっと大掛かりに解体とかするのかなと思っていましたが、緻密な作業もあるんですね。
長楽寺 馬頭観音坐像
島口さん | この仏像は「如来、菩薩、明王、天部」のどれに当てはまると思います? |
─── 怖い顔で武器を持っているから明王?
島口さん | 実は、菩薩なんです。「馬頭観音菩薩坐像」という仏像で、頭の上を見るとお馬さんが乗っていますね? |
頭上で微笑むお馬さん
島口さん | 馬が草を食べ尽くしたり、水を飲み尽くしたりするような勢いで人々を救ってくれる仏様です。菩薩の中でも唯一、怒りの形相で表現される事がある菩薩なんですよ。 |
2階の一番奥の展示室には、きらびやかな仏像が三体ありました。
島口さん | 実はこちらの真ん中の仏像も特殊な例なんですよ。冠や首飾りなどをしているので一見すると菩薩に見えますが、これは如来です。まだお釈迦様が修行中の若い頃を表しているんですよ。「宝冠釈迦如来(ほうかんしゃかにょらい)」と言います。 |
方広寺 釈迦如来坐像
鼻筋がスッとしてる
─── こちらは三体セットですね。
島口さん | そうなんです。菩薩は如来とセットで祀られることも多いんです。「薬師三尊=薬師如来、日光菩薩、月光菩薩」「阿弥陀三尊=阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩」というように、どの如来にどの菩薩がつくかはセットで決まっています。菩薩を如来の右左どちらに置くのかも決まっているんですよ。 |
島口さん | こちらは、「釈迦三尊」という形式で安置されています。傍にいるのは文殊菩薩と普賢菩薩。 注目して欲しいのは衣。「盛り上げ彩色」と言って貝の粉を細かく砕いて盛り上げて彩色をしている模様がよく残っています。 |
盛り上げ彩色
仏像だけじゃない!仏像から出てきたあるもの
島口さん | 重要文化財は仏像だけじゃないんですよ。実は仏像の中から出てきたものが大変貴重で歴史的価値のあるものなんです。 |
応賀寺 毘沙門天立像
島口さん |
応賀寺の毘沙門天立像には4mくらいある長い巻物が入っていたんですよ。 そこには、毘沙門天立像が作られた経緯が書かれていました。 巻物によると「妙相という橋本宿の長者が4度も夢を見たのがきっかけ」だったそうなんです。 |
4mほどのある長い巻物
応賀寺住職 道家さん |
その巻物を願文(がんもん)といいます。 前半は4mm〜5mmの細かい字でお経が書き連ねられています。 その後に、仏像が作られた経緯や、後の時代の修理歴なども記載されております。 この毘沙門天立像ですが、元々は紅葉寺(本学寺)というお寺の所蔵でしたが、そのお寺が荒廃していた頃に当山でお祀りするようになったものです。 |
講座にて
応賀寺住職 道家さん |
当山には、この仏像に関して源頼朝公の伝説が残っています。 今は新居関所で有名な新居ですが、当時は関所はなく「橋本宿」という大層賑やかな大きな宿場町があったそうです。 この宿場町に頼朝公が逗留された際に、橋本の長者の娘に恋をしたそうです。 やがて、頼朝公がお亡くなりになった後、その娘は出家し、頼朝公を供養するために毘沙門天立像をつくり紅葉寺を建立したという話です。娘が出家した際の戒名が「妙相」と伝えられています |
応賀寺住職 道家さん | ただ、この話も諸説ありまして、伝説では長者の娘が妙相とされていますが、願文には長者本人が妙相という名だと記されております。頼朝公が逗留された年と願文に記された年に80年くらいの差があること、願文に一度も頼朝公の名が出てこないことを踏まえると、伝説の類ではないかなと。また、年代から頼朝公ではなくて四代将軍の頼経公だったのではという推測もされております。 |
謎の人物 妙相
応賀寺住職 道家さん |
この妙相という人物ですが、詳細はあまりわかっておりません。 ただ、高野山からこのような仏像を取り寄せてお寺を建てたり、三ヶ日の大福寺に病気平癒を祈願して普賢菩薩の仏画や歓喜天像(かんぎてんぞう)という仏像を奉納したという伝承もあり、大変力を持った人物だったのだろうと推測されます。 妙相とは一体どんな人物だったのか。 今回の展示は、そういった歴史のロマンを感じていただけたらと思います。 |
ちょっと通な見所 様式でわかる制作年代
展示品は平安時代から鎌倉時代、南北朝時代に制作された仏像が主ですが、様式を知ればいつ頃に作られたのかだいたい見当が付くとのこと。
島口さん |
展示品の中で一番古いのが「摩訶耶寺の千手観音」。 平安時代中期の作です。 |
島口さん |
どうして、平安時代に作ったってわかるのかというと、ポイントが2点あります。 一つは「一木造り」であるということ。 二つは「翻波式衣紋(ほんぱしきえもん)」という様式の特徴がみられるからです。 |
よく見るとひび割れている
島口さん |
一木造りの特徴的な点は、干割れ(ひわれ)。 一本の木をまるまる使った一木造りは、仏像の中にも木がびっしり詰まってます。 長い月日の中で待機中の水分を吸収して膨張したりする中で、だんだんひび割れていくんですね。 |
島口さん |
それから一木造りの仏像はすごく重いです。 今回の展示のため業者の方が三人がかりで運び出しましたが、三人とも「重っ!」と驚いていました。 |
実はすごく重いのです
島口さん |
それから、足元の衣を見ていただくと、大きな波と小さな波が繰り返すような衣の流れがわかりますか? この衣紋は8世紀から9世紀にかけての仏像に多く見られる特徴なんですよ。 |
翻波式衣紋(ほんぱしきえもん)
島口さん | 平安時代の後期になると、一木割矧造(いちもくわりはぎづくり)や寄木造(よせぎづくり)という技法が出てきます。一本の木から仏像を彫り出した後でいくつかのパーツに割り、中身をくり抜いてくっつけたものや、頭、胴体、足などのパーツを別々の木に彫り、中身をくり抜いてくっつける方法ですね。 |
仏像を下から見た写真
島口さん | 浜松の仏像は、一木割矧造(いちもくわりはぎづくり)が多い印象ですかね。そのことからも遠州三河地方は巨木が手に入りやすかったのではないかなと予想できます。地域の恵みを活かして作られていたんですね。 |
普門寺 阿弥陀如来坐像(平安時代後期作)
島口さん |
平安時代後期には「定朝様式」という様式が流行りました。 定朝様式の「定朝」は、仏師さんの名前です。 実は、この定朝さんが作ったと確定している仏像は日本で一体だけ。あの平等院鳳凰堂に安置されている阿弥陀如来像。 |
─── 様式の名前にもなっている凄腕仏師さんなのに、その一体しか確実につくったと言えるものがないんだ!
島口さん |
そうなんです。 定朝さんが作った阿弥陀如来像は、「これぞ仏様の姿だ!」と絶賛されて全国各地でその仏像を真似た姿の仏像が作られるようになっていきました。それらを総称して「定朝様式」と呼んでいます。 |
平坦な体つき
島口さん |
定朝様式の特徴として、 ・穏やかな表情 ・細かく粒だった髪の毛 ・浅く流れるような彫り ・平坦な体つき などが挙げられます。 |
応賀寺 毘沙門天立像(鎌倉時代作)
島口さん | 鎌倉時代になると、ポージングに動きが出てきて、写実性を求める様になってきます。 |
島口さん | 今回は出展はありませんが、岩水寺に地蔵菩薩立像という仏像があります。この像は鎌倉時代の写実性への追求という意味でとても面白い像です。 |
岩水寺 地蔵菩薩立像(鎌倉時代作)
─── 服を着ていますね。
島口さん |
そう。「裸形着装像(らぎょうちゃくそうぞう)」と言います。 現実の人間のように服を脱がせると裸んぼうの菩薩様です。 写実性を追求して衣服を一生懸命彫っていた鎌倉時代の仏師さんの中に「リアルにするんだったら本物の洋服着せた方がよりリアルになるのでは?」と思った仏師さんがいたんでしょうね。 この裸形着装像ですが、全国で50体しかありません。その中の1体が実は浜松にあるんですよ。 |
島口さん | 写実性はこんな工夫にも表れています。西楽寺の阿弥陀如来ですが、目に注目していただくと、キラキラしてませんか? |
西楽寺の阿弥陀如来
島口さん | 実はこれ、水晶がはめ込まれているんですよ。水晶をはめ込んで、その裏から彩色して目を描き込んでいます。 |
島口さん |
ですが、体を見るとどうも平安時代の様式が残っているんですね。目は鎌倉時代に盛んだった玉眼。 この仏像は二つの時代の様式が混じり合っている。それで、過渡期に作られたものではないかと推理できるんですね。 まだ玉眼がスタンダードじゃない時期に最先端の流行を取り入れているんですよ。 |
─── 最先端の流行が遠州に?
島口さん | テレビもないラジオもないネットもない時代に、京都や奈良の流行が静岡まで入ってくるのにはもっと時間がかかったはずですよね。それなりに力を持った有力者がいたり、文化的に栄えていた地域じゃないとこんな仏像は登場しない。 |
展覧会タイトルの三つのキセキ
最後に「みほとけのキセキ-遠州・三河の寺宝展-」の“みほとけのキセキ”というキーワードにこめられた三つの意味を解説いただきました。
- ・平安・鎌倉・南北朝時代の流行に則った仏像の変遷の軌跡
- ・都から三河・遠江への、仏教文化の伝播の軌跡
- ・平安・鎌倉・南北朝時代のいにしえの仏像に、令和時代に出会える奇跡
文化の伝播の軌跡
島口さん |
これは、昔の人々の流れの大まかなルートを記したものです。 現在は浜名湖の南側が主要なルートですが、地図を見ていただくと上の方がお寺が多いですよね。 |
島口さん |
また、浜名湖なんですが、今は今切口という海と湖が繋がったところがありますが、平安時代~鎌倉時代以前は、湖もっと上の方にあったとされており、浜名川という川が湖と海を繋いでいたそうです。 歴史書を読みときますと、そこに浜名橋という170mほどの長さの木の橋がかかっており、高潮や台風でしょっちゅう壊れていたと記録があります。運搬や旅路にはかなりリスキーなルートだったんじゃないかなと。 |
島口さん |
豊橋の方には豊川という川がありますが、下口の方が湿地帯だったらしいんです。 また、川幅も広いので豊川の下口を越えるのも難しかったのではと推測します。 豊川の上流の方は古くから道が整備されていたとのことで、豊川の上から本坂峠を通過して三ヶ日、三方原、市野へと至り、磐田へ向けていく、そんな浜名湖の北側を通過するルートが主要ルートだったのではないかなと。こういった地理的条件に左右されながら伝わっていたのではと推測できるわけですね。 |
島口さん |
文化は西から東へと申しましたが、実はそんな単純なルートでもなかったと考えられます。 国分寺、定額寺(じょうがくじ)の存在です。 国分寺は奈良時代に聖武天皇が日本の各国に建立したお寺です。 当然、都からお役人が来て働いたり、中央との密接な繋がりがあったと思います。 ちなみに、定額寺は私立のお寺で国分寺と同じ位の権威を与えられたお寺です。浜松では南区の頭陀寺が唯一認定を受けたお寺であります。 |
島口さん |
そういったお寺が点在していますので、単純に西から東へというよりは、まずは国分寺へ文化や物が伝わって、そこを起点として全国各地へ広がって行ったのかなと。 また、磐田に遠江国池田荘という白河上皇、鳥羽上好と密接な関わりを持った荘園があったそうです。 これだけの荘園を持った有力者が早くに都文化を享受し、周りに広めていったんですね。 このような条件下で文化は縦横無尽に伝わっていったのではと考えられています。 |
平安・鎌倉・南北朝時代のいにしえの仏像に、令和時代に出会える奇跡
島口さん |
こちらの仏像、どちらも平安時代の仏像と考えられています。 でも、こちらの仏像の出展はありません。というより、できないんです。 よく見ていただくと二つとも白黒の写真ですよね。 実は、写真だけ残っている、もうこの世には存在しない仏様なんで。 |
─── 目録には“亡失”とありますね。
島口さん |
燃えてしまったという説が有力ですが、どのようにしてというのは定かではありません。 まわりくどくなってしまいましたが、仏様って太平洋戦争だけでなくて歴史上の危機を幾度も乗り越えてきたんです。 遡れば、中世近世では勢力争いのなかで失われてしまったお寺や仏像もたくさんありました。 また、明治時代の神仏分離の政策でお寺は徹底的に潰されてしまった過去があるんですね。 今、国宝級と言われる仏像がその辺に放置されていた写真が史料として残っているのですが、そのくらい徹底的に潰されてしまった。 |
─── 今もこの世にある仏像たちは、そんな歴史の荒波を乗り越えてきたんですね。
島口さん |
その史実を踏まえると、今この令和の時代に、仏像に出会えるのは奇跡なんじゃないかなと私は思います。 いろんな歴史を乗り越えてきた、お寺さんが守ってきた、地域が守ってきた、だから今この世に残っている。 その結果、今回の展覧会が開催できる、それってまさに奇跡だなと。 その出会いを感じてほしかったので、“みほとけのキセキ”という展覧会のタイトルにしたんです。 ぜひ、皆さんもこの3つの“キセキ”をご覧いただけたらなと思います。 |
仏像鑑賞、すごく面白かったです。
知識があればなおさらですが、知識がなくても造形を眺めているだけで楽しいです。
普段は真正面からしか拝めない仏像を自由な角度で眺めることができるのも興味深い体験でした。
細部までじっくり見れる
美術館で彫刻作品としてみる仏像は、美術品として見所盛りだくさん。 「あ、こんなところにこんなものが付いていたんだ」とか「こんな細部まで作り込まれているんだ」とか普段気が付かない発見がありました。 そして、彫り跡や彩色跡から、自分より何年も前に生きていた人々の存在を感じる事ができ、とても感動しました。
かっこいい馬頭観音
この記事を書いた人
- 猫と一緒に暮らし始め、猫アレルギー疑惑が払拭されました。猫の毛ってすごい空中に舞いますね。ふわふわ。
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